トンボはなぜ空中でぴたりと止まっていられるのか
トンボが空中でぴたりと止まれるのは、4枚の翅を1枚ずつ別々に動かせるからです。静止しているときは前翅と後翅の打つタイミングをずらし、少ない力で体重を支えています。
この記事では、翅を動かす筋肉のつくり、止まるときと飛び立つときの翅の使い分け、翅の先にある黒い点の役目までを、研究の数字をもとに順に説明します。
翅1枚ごとに筋肉がついている
トンボの翅は、前の2枚(前翅)と後ろの2枚(後翅)に分かれています。その付け根には、飛ぶための筋肉が腱を介して直接つながっています。これを直接飛翔筋と呼びます。
ハエやハチなど、いま生きている翅のある昆虫の大半は別のやり方で飛びます。筋肉は翅に直接つながっておらず、胸の外骨格をへこませたり戻したりして、その変形で翅を上下させます。こちらは間接飛翔筋と呼ばれます。
4枚の翅を持つ昆虫でも、前後を連結して1組として使うものが多くいます。ミツバチは後翅の前の縁に並ぶ小さなかぎ(翅鉤)を前翅の後ろの縁に引っかけ、2枚を1枚のようにして打ちます。チョウは前翅と後翅を大きく重ね合わせ、つなぎ目なしで一緒に動かします。トンボの4枚には、こうした連結がありません。
2019年に学術誌バイオロジー・レターズに載ったトンボ類の研究は、直接飛翔筋のおかげで4枚の翅をそれぞれ独立に操れると説明しています。静止飛行も、滑空も、後ろ向きの飛行も、この構造から生まれます。
羽ばたきは意外とゆっくり
トンボの羽ばたきは、昆虫の中では速くありません。米コーネル大学のワン氏らが2007年に発表した実験では、体を固定したトンボの羽ばたきが平均で1秒間に33.4回でした。
学術誌バイオフィジクスに載った2011年の総説によると、ハエは1秒に約200回、カは約500回、小さなヌカカの仲間は約1,000回羽ばたきます。トンボの回数はカの15分の1ほどです。
この差は筋肉の動き方の違いから来ています。トンボの筋肉は、神経から信号が1回届くたびに1回縮む「同期型」です。ハエやカの筋肉は、神経の信号で準備が整うと、あとは自分で振動し続ける「非同期型」です。
トンボは回数では負けます。そのかわり、羽ばたき1回ごとに神経が指令を出し、4枚それぞれの動きを変えられます。速さより細かな操作を選んだつくりです。
止まるときは前と後ろをずらして打つ
空中で止まるのは、前へ進んで飛ぶより難しい飛び方です。前進していれば翅に当たる風も浮く力を助けますが、静止中はその助けがありません。体重と同じだけの上向きの力を、羽ばたきだけで作り続ける必要があります。
そのためトンボは、前翅と後翅をそろえて打ちません。後翅が先に動き、前翅が少し遅れて続きます。
ワン氏らの実験は、このずらし方の効果を計算で確かめました。静止中に見られる前後がずれた打ち方は、体重を支えるのに必要な力を、ほぼ最小の仕事量で生み出していました。前後のずれ方を変えるだけで、生まれる力は約60パーセント、必要な仕事量は約40パーセントも変わります。
2008年には、英国のアッシャーウッドとドイツのレーマンが、機械仕掛けのトンボ模型で同じ問題を調べました。後翅が前翅より4分の1周期ほど先に動くと、前翅が後ろへ捨てた渦巻く空気の流れを後翅が拾い、上向きの力に変えます。
その結果、同じだけ浮き上がるのに必要な力が、前翅だけの場合より約22パーセント少なくて済みました。実際にアカネ属のトンボが静止飛行するときのずれは約28パーセントで、模型で最も効率がよかった値にほぼ重なります。
後ろの2枚は、前の2枚が生んだ空気の流れを回収する役を担っています。4枚あることは無駄ではありません。
飛び方ごとに翅の使い方を変える
トンボは同じ4枚の翅で、止まる・飛び立つ・後ろへ下がる・逃げる、を切り替えます。研究で分かっている使い分けを表にまとめました。
| 飛び方 | 前翅と後翅の動かし方 | ねらい |
|---|---|---|
| 静止(ホバリング) | 後翅が先、前翅が遅れて打つ | 最小に近い仕事量で体重を支える |
| 飛び立ち・加速 | 4枚をほぼ同時に打つ | 上乗せの力を生み、体を押し出す |
| 後ろ向きの飛行 | 体を水平から約90度まで起こして羽ばたく | 生まれる力を後ろへ向ける |
| 敵からの逃避 | 後翅を大きく傾けて空気をつかむ | 効率を犠牲にして一気に大きな力を出す |
静止と飛び立ちの違いがよく分かります。ずらして打てば省エネになり、そろえて打てば力が増えます。トンボは場面に応じて、この2つを行き来しています。
後ろ向きに飛ぶときは、翅の動かし方より体の向きを変えます。体を立てれば、羽ばたきで生まれる力の向きも後ろへ傾くからです。
翅の先の黒い点は「重り」
トンボの翅をよく見ると、先端近くの前の縁に、小さな色の濃い部分があります。縁紋(えんもん)と呼ばれ、まわりより重くできています。ハチの仲間やヘビトンボの仲間の翅にも見られますが、いちばん目立つのはトンボです。
翅は速く飛ぶほど、ある速さを超えると勝手に震え出します。飛行機の翼でも問題になる、フラッターという現象です。縁紋はこの震えを抑える重りとして働きます。
1972年にノルベリが発表した研究では、ある種のトンボで、縁紋があると震えが始まる滑空の速さが10〜25パーセント上がりました。縁紋がなければ、その速さを超えた滑空はできません。翅の先の小さな重りが、速く飛べる上限を引き上げています。
トンボは羽ばたきを止めて、翅を広げたまま滑空することもあります。縁紋が効いてくるのは、まさにこの場面です。
狩りと小型ロボットに生きる機動力
この機動力は狩りに直結しています。獲物を見つけるのは大きな複眼で、種類によっては2万8,000個ものレンズが並びます。2013年の実験では、トンボは囲いの中に放たれた獲物の約95パーセントを捕らえました。フクロウやハヤブサなどの猛禽類の成功率は約25パーセントとされ、差は歴然です。大人のトンボ1匹が1日に食べるカは、30匹から100匹を超えるほどです。
トンボの飛び方は、旅客機ではなく、手のひらに載るような羽ばたき型の飛行ロボットの手本になっています。東京工科大学の野田龍介講師らは2023年、トンボが敵から逃げるときの飛び方を数値計算で解析し、専門誌ジャーナル・オブ・フルイド・メカニクスに発表しました。
逃げるとき、後翅は大きく傾いて空気をつかみ、効率を捨てて局所的に大きな力を生み出していました。回転翼のドローンに代わる、次の世代の羽ばたき型ロボットをつくる手がかりとして期待されています。
よくある疑問
- トンボはどのくらいの速さで飛べますか?
- スミソニアン協会の雑誌によると、速いものでおよそ時速35マイル、約56キロに達します。一般道を走る車と同じくらいの速さです。
- トンボはすべての翅を同じように動かしているのですか?
- いいえ。4枚それぞれに筋肉がつながっているので、前翅と後翅でタイミングも傾きも変えられます。静止中は前後をずらし、飛び立つときはそろえて打ちます。
- 羽ばたく様子を家で観察できますか?
- スマートフォンのスロー撮影(1秒240コマ)を使えば、1回の羽ばたきがおよそ7コマに分かれる計算です。空中で止まっているトンボを横から撮ると、前翅と後翅が同時には動いていない様子を確かめられます。
まとめ
トンボが空中で止まれるのは、4枚の翅それぞれに筋肉が直接つながり、1枚ずつ別の動きをさせられるからです。静止中は後翅を先に打って前翅の生んだ空気の流れを回収し、前翅だけで飛ぶより約22パーセント少ない力で浮いています。飛び立つときは4枚をそろえ、逃げるときは後翅を大きく傾けます。次に空中で止まっているトンボを見かけたら、スロー撮影で前翅と後翅のずれを確かめてみてください。
参考にした資料
- 東京工科大学 — トンボの優れた機動飛行の流体力学メカニズムを解明
- Journal of the Royal Society Interface — Phasing of dragonfly wings can improve aerodynamic efficiency by removing swirl
- Smithsonian Magazine — 14 Fun Facts About Dragonflies
- Physical Review Letters(コーネル大学, 2007) — Effect of Forewing and Hindwing Interactions on Aerodynamic Forces and Power in Hovering Dragonfly Flight
- Biology Letters(2019) — Resilin in the flight apparatus of Odonata (Insecta)—cap tendons and their biomechanical importance for flight
- Biophysics(2011) — Structure, function and evolution of insect flight muscle
- Wikipedia(英語版) — Pterostigma
- Wikipedia(英語版) — Wing coupling