マチュ・ピチュは本当に忘れられた都だったのか
マチュ・ピチュは「失われた都市」と紹介されますが、地元の人はその場所を知っていました。1911年にハイラム・ビンガムを案内したのも、近くに住む農民です。
忘れていたのは、外の世界のほうでした。それでもこの遺跡が長く記録から消えていたのは確かで、そこには理由があります。
雲の上に築かれた王の離宮
マチュ・ピチュがあるのはペルー南部、標高2400メートルを超える尾根の上です。インカ帝国の皇帝パチャクテクが造らせた離宮だったと考えられています。
都市というより、王族が狩りや宴のために滞在する別荘に近い場所でした。切り立った谷に囲まれ、道を知らなければたどり着けません。
この地形が、のちに遺跡を人目から遠ざけることになります。
使われたのは1420年から1530年ごろ
建設時期は長いあいだ、スペイン人が残した年代記をもとに1440年ごろとされてきました。この見方を書き換えたのが2021年の研究です。
イェール大学のリチャード・バーガーらは、4つの墓地から出た26人の人骨を加速器質量分析による放射性炭素年代測定にかけました。結果は、遅くとも1420年には人が住み、1530年ごろまで使われ続けていたというものでした。
年代記は征服者側の伝聞をもとに書かれています。人骨の測定は、その記録に頼らずに年代を出す方法です。
「失われた都市」は宣伝の言葉
ビンガムが遺跡に立ったのは1911年7月です。ただし彼は道に迷って偶然たどり着いたのではなく、地元の人から場所を聞いて案内されたのです。
当時すでに、近くに住む家族が遺跡の段々畑で作物を育てていました。無人の秘境ではなかったのです。
「失われた都市」という呼び方は、この訪問を世界に伝えるときの表現として広まりました。
スペイン人は本当に知らなかったのか
スペイン軍がここを攻めた記録は見つかっていません。石組みが壊されずに残っているのは、そのためだと考えられています。
ただし「まったく知られていなかった」とまでは言えません。16世紀末のスペイン語の記録には、この地域の先住民が「ワイナ・ピチュ」へ戻ろうとしていたという記述が残っています。
場所の名前は、征服者の書類のなかに残っていたのです。
本当の名前は「ワイナ・ピチュ」かもしれない
2021年、ペルー文化省のドナト・アマド・ゴンサレスとイリノイ大学シカゴ校のブライアン・バウアーが、この遺跡の名前を検討した論文を発表しました。二人が集めたのは、ビンガムの野帳、19世紀の地図、17世紀の土地文書です。
ビンガムが訪れる7年前、1904年の地図帳にも「ワイナ・ピチュ」というインカの町の遺跡が記されていました。ワイナは若い、ピチュは山の峰を意味するケチュア語です。
インカの人々が呼んでいたのはピチュ、あるいはワイナ・ピチュだった可能性が高い、というのが二人の結論です。
忘れられていたのは遺跡そのものではなく、遺跡についての記録でした。人骨の年代も、古い地図に書かれた地名も、後から調べ直して初めて意味を持ちます。
写真で見慣れた場所でも、まだ書き換えられる余地は残っています。
参考にした資料